※リアルタイムのログではありません。数日前のログになります。
〝人間一生 物見遊山…〟
これは江戸っ子の人生観を表す言葉。
生まれてきたのは、
この世をあちこち寄り道しながら見物するためであり、
せいぜいあちこち見て、
見聞を広めて友だちを増やし、
死んでいけばいい…と考えていました。
わたしはこの言葉が好きで、自分もそうしたいと思っています。
京都三条大橋から、お江戸日本橋まで東海道&中山道69次。
江戸時代の人は、江戸から京都までの135里34町余(約540km)㎞を歩いていたそうです。
出張や用事に合わせるので
宿場の順番通りにはいきませんが、西から東へ。
物見遊山しながら…自分の脚で走って一本の道をつなげてみようと、旅をしています。
対して中山道は、東の山中を通過するので「中山道」
東海道とともに日本の二大幹線道で、中山道は近世以前から「東山道」と呼ばれ西国と東国を結ぶ主要道でした。
▼中山道:
江戸・日本橋~東海道・草津宿の67継立(67次)
草津宿と大津宿を含めて69次という場合もあるので、このログ上では、
69次135里24丁8間(約540km)で表記します。
コロナの様子を見ながら、感染予防して
〝うつさない・うつらない〟の心がけをして…
武並〜第46次大井宿〜第45次中津川宿〜第44次落合宿〜第43次馬籠宿〜第42次妻籠宿〜第41次三留野宿〜第40次野尻宿まで。
あちこち寄り道しながら2泊3日で60㎞走ってきました。
1日目は26㎞
2日目は22㎞
3日目は12㎞
とうとう岐阜から長野に入るとあって、アップダウンがありましたが、しんどさを感じさせない宿場や自然の景観、出会う人達のあたたかさに救われました。
今回は2日目の旅のうちの、落合宿から馬籠宿までを記録します。
(1つ前の記事:の記事 中津川から落合宿までの記事はこちら→☆☆☆)
落合宿をこえ、国内外の中山道が好きな方に人気である落合の石畳。
あいにく雨の日になりましたが、パラパラ…っとした降り方だったので、木々に囲まれた石畳の道まで雨が届かなかったのは幸いでした。
ただでさえ、苔むしていて滑るので、雨が届くとツルツルです。
コロナ禍で、海外旅行をする方がいないので、平日の中山道はシーンとしていて、どなたともすれ違いません。
十曲峠の石畳を独占しながら前に進みます。
山の中では、あまり写真を撮らないように…(→クマ対策)と家族に念を押されていたので、写真はありませんが、奥へ進むにつれて頭上の空も消え、木々の緑が広がり、とても気持ちの良い道なんですよ。
晴れてたらもっと気持ちが良いだろうな。
●なんじゃもんじゃの杜
木曽川流域だけに自生するヒトツバタゴの別名。
初夏に雪が積もったように白い花を咲かせるんだそうです。
今は秋から冬にかけての季節なので、花はありません。
季節ごとに違う顔を見せる中山道。
1回きりの旅ではもったいないような気がします。
●新茶屋一里塚古跡
現代では岐阜の位置になりますが、昔で言えば美濃と信濃の国境です。※2005年に村の合併で長野から岐阜になった様です。
これより北木曽路…の石碑。
この先はるか遠くに、これより南木曽路…の石碑もあるようですが、間の距離は22里(約86㎞)ほどあります。
新茶屋一里塚付近の様子↓
熊出没注意喚起の看板は数多い。
どうやら熊の庭に入らせていただいているみたいです。
ちょっと通らせてくださいね。
十曲峠を抜けると空が開けます。
展望の良いところに東美濃を一望できるスポットがあります。
とんがっているのは笠置山かな…
正岡子規が歌う句碑。
〝桑の実の 木曽路出づれば 穂麦かな〟
東から西に中山道を行けば、このあたりは木曽路の終り。
山中から抜け空が広くなる場所。
正岡子規はそれを、木曽路を出たら桑畑も少なくなり、麦畑が続いてるよ…と歌ったんですね。
...そうか、まだまだ山中は序章。
これからこの先はずっと山の中なのかと心の中でつぶやきながら熊スプレーと手作りの音が出るやつを見る。
手作りの音が出るやつは、ステンレスのマグカップと百円均一のミニスリコギを麻の紐でつないだもの。
紐は首にかけられるようになっていて、ザックの前ベルトにマグの持ち手を通し固定し、スリコギをカップに入れれば、走ったり歩くたびに自然に音が出るようにしました。
民家付近では音が鳴らないようにスリコギ棒をザックのポケットにしまう。
曲がり角の手前や川付近では棒でカップを叩けば、かなり大きな音が出る。
1人ボッチの中山道では、これがかなり心強い相棒となりました。棒だけにね…
東へと進むと、人の気配がしてきましたよ。民家があります。
落合から馬籠までたった4㎞程度でしたが、とても長く感じました。
いよいよ宿場に入る様です。
上の写真はどなたかが住んでいるお家ですが、入り口だけ写真を撮らせていただきました。
江戸時代は玄関の大きさで税金の額が決められていたと何かの本で読んだことがあります。
このお宅の入り口はその名残なのか、間口が1mあるかないか。
このような造りを残してくださるのはありがたいですね。
●諏訪神社
浅田次郎の〝一路〟でスワがお参りしてる諏訪神社かな。山の中に入っていく感じで、民家が無かったので鳥居はくぐりませんでしたが、神々しいので鳥居の外から旅の安全祈願をさせていただきました。
●馬籠城跡
馬籠宿本陣の祖・島崎監物が守っていたようですが、伊那軍に攻められて落ちたようです。昔は国盗り城攻めが激しいですね。
まぁ、現代でも形を変えて日常や人間関係にありがちですが。
さぁ、いよいよ馬籠宿です。
島崎藤村の故郷です。
※注:明治5(1872)年、島崎藤村は、馬籠宿の本陣、問屋、庄屋を兼ねる17代目当主島崎正樹の4男として生まれています。
五平餅を楽しみに来ましたが、準備中で、お腹を空かせながら妻籠までお預け。
今も現役の水車です。
これが見たかった!
本陣に近づくにつれて、道は桝形を描きます。
どの宿場も出入り口が桝形なのが、攻められないようにと宿場を守る知恵。
良く安全対策が練られているなと感じます。
島崎藤村の夜明け前に登場する馬籠宿。
夜明け前を読んでいれば、感動は何倍も膨れ上がったんだろうな。
桝形の道の向こうに恵那山麓が見えますね。
アップダウンを繰り返しながら、かなり登ってきました。
●清水資料館
清水資料館は島崎藤村の作品〝嵐〟に出てくる森さんの家。
嵐は読んでませんし、夜明け前も記憶が薄いので、再度、藤村の文学に触れたくなりました。
●馬籠宿本陣跡
本陣1
脇本陣1
旅籠18
家数69
まだ岐阜県ですよ。岐阜を西から東に走ってきました、すごく長かったです…。
自分の脚で景色を見ているというのもあるでしょうが、こんなにいろんな表情を見れた県は初めて。
藤村記念館と裏の永昌寺に立ち寄る予定でしたが、雨雲レーダーによればゆっくりしていたらかなり雨に打たれそうな予報でしたので、馬籠を後にしさっさと妻籠を目指します。
●高札場
高札場は修復中でした。
立派な高札場です。
馬籠を後にするところに、公園があり、藤村の夜明け前の石碑が2つ。
石碑の奥は恵那山や東美濃の山々が見えます。
〝お民、来てごらん 今日は恵那山が良く見えますよ…〟
〝あの山の向こうが中津川だよ。美濃は良い国だねぇ〟(夜明け前より)
…えらい遠くまで走ってきたな。いやいや、まだまだこれからが旅路。
この区間での旅気付きは、予定はあくまでも予定で、思い通りにはなかなかならないということ。
天気や環境の変化で予定はいつでも覆される。
それに臨機応変に対応する力が必要だということ。
そんなことを思いながら、馬頭観音様に旅の安全祈願をし、熊鈴を鳴らしながら山へと入っていきます。
次は妻籠を目指して。
続きはまた。
今年は熊の活動範囲が広がっています。
ブナ・コナラ・ミズナラなどの木の実が不作で、山中はもちろん、里の方まで降りてきています。
とくに、秋と春は熊が活動する時期なので、山に入るときは十分に気を付けて準備と対策をしておきましょう。
特に山を楽しむ方や、里山近くで畑仕事をする方は、
10月6日に書いたBLOG記事をよろしければ、読んでみてください→☆☆☆
▼クマに備えるにはどうしたらいいの?→関連記事☆☆☆
▼今年は全国各地でクマ出没情報と事故が多発しています。新潟県では、10月12日「クマ出没特別警報」を初めて出しました。県民に厳重な警戒を呼びかけています。
▼岐阜県に生息するツキノワグマについて→ https://www.pref.gifu.lg.jp/page/4964.html
▼熊出没情報BLOGリンク→ http://sukeroku.blog55.fc2.com/archives.html
●高温多湿の梅雨や炎天下の夏の季節は、帽子をかぶったり、こまめな水分補給をしたりして、充分な熱中症対策を心がげましょう。
●思った以上にコンビニがありません。行動食を持っておきましょう。
●トイレは駅やコンビニがほとんどです。事前に場所をチェックしておきましょう。
●自販機はあるコースと峠越えなどは自販機が無いコースもあります。余分に水分を持参しておきましょう。
●お天気が急に変化しますので、レインウェアを持参しましょう。
●救急グッズを持っておきましょう。
●ローカル線は電子カードが使えないことが多いので、電車賃を準備しておきましょう。