〝人間一生 物見遊山…〟
これは江戸っ子の人生観を表す言葉。
生まれてきたのは、この世をあちこち寄り道しながら見物するためであり、
せいぜいあちこち見て、
見聞を広めて友だちを増やし、
死んでいけばいい…と考えていました。
わたしはこの言葉が好きで、自分もそうしたいと思っています。
京都三条大橋から、お江戸日本橋まで東海道&中山道69次。
江戸時代の人は、江戸から京都までの135里34町余(約540km)㎞を歩いていたそうです。
出張や用事に合わせるので
宿場の順番通りにはいきませんが、西から東へ。
自分の脚で走って一本の道をつなげてみようと、旅をしています。
対して中山道は、東の山中を通過するので「中山道」
東海道とともに日本の二大幹線道で、中山道は近世以前から「東山道」と呼ばれ西国と東国を結ぶ主要道でした。
▼中山道:
江戸・日本橋~東海道・草津宿の67継立(67次)
草津宿と大津宿を含めて69次という場合もあるので、このログ上では、
69次135里24丁8間(約540km)で表記します。
出張や用事に合わせるので、
順番通りにはいきませんが、
西から東へ。自分の脚で一本の道をつなげてみよう。
京都三条大橋から旧東海道を走って、いよいよ中山道入り口手前まで。
●瀬田の大橋
いよいよ瀬田川を渡ります。
ビワイチの終起点でもある瀬田唐橋です。
全長223.7mです。
ネギ帽子みたいな形の擬宝珠を備えたデザインが「唐風」だから唐橋といわれるという説。
瀬田の橋を征する者は天下を征するといわれ、
何度も戦火に巻き込まれたんだそうです。
昔、藤原秀郷(ふじわらひでさと・佐藤太)が橋を渡ろうとしたときに、
瀬田川の龍が三上山の大ムカデに困っているから退治してほしいと頼まれたそう。
個人的な感覚ですが、何度も戦火に巻き込まれてもずっと残り続けている唐橋は、
瀬田川の龍が守ってくれているのかもしれません。
琵琶湖の向こうに見えるは比良山系。
●建部神社
瀬田唐橋を渡るとすぐに建部神社(たけべじんじゃ)。
ここは日本武尊を建部大神として祀っています。
ルートからは少しそれますが、割と近いので、強いパワーを感じに行くのもよいですよね。
●月輪一里塚
ねこから2㎞くらいで、月輪一里塚・131里。
1里が3.92727㎞なので、131をかけると。。。
この先日本橋まで514.473㎞なのか。。。気が遠い。
母を訪ねて三千里のマルコは偉いなぁ。
一里塚とは、旅人の目印として、大きな道路の側に1里(3.92727㎞)毎に設置した土盛りの塚のこと。
木を植えたり、標識を立てたりしています。
月輪一里塚というだけあって、
近くに月輪寺という寺があります。
ここで終われば、すぐJR瀬田駅です。が、がんばって走ります。
●弁天池
月輪一里塚から3㎞走ると、弁天池。
江戸時代の盗賊・日本左衛門が逃げ隠れして、橋の向こうの弁天島に住んでいたとか。
島は弁財天がまつられています。
逢坂山を下りた時も感じましたが、
大津に入った瞬間、空が開けるというか、視野が広くなるというか、
解放感いっぱいになります。
弁天池と空を見ると、何もかも手放して開放された気持ちになります。
●平清宗の首塚
弁天池から1㎞。
平清宗の首塚があります。
平清盛の孫で、源平合戦で都落ちし、壇ノ浦合戦でとらえられ
首を切られた。
遠藤さんという人の敷地らしいので、塀の外から覗きます。
おそらく、大津から草津のあたりが一番寺社仏閣が多いし、
何といっても近江商人の街で、いろんなお店や工場の跡もあるので、
もっとゆっくり立ち寄りたい区間でした。
50m~100mおきに史跡があるけど、
走っているから、予習していった10分の1も止まれませんでした。歩きにこよう!
いよいよ次は中山道に入ります。
もっと立ち止まって歴史ロマンを感じたかった。
もっと〇〇しておけばよかった…という後悔が無いように、今を大切にしなければならないと思った。
そのためにも、もう少し距離は短く、立ち止まれる時間配分も今後課題になってくるでしょう。