※リアルタイムのログではなく、数日前のログです。
〝人間一生 物見遊山…〟
これは江戸っ子の人生観を表す言葉。
生まれてきたのは、
この世をあちこち寄り道しながら見物するためであり、
せいぜいあちこち見て、
見聞を広めて友だちを増やし、
死んでいけばいい…と考えておりました。
わたしはこの言葉が好きで、自分もそうしたいと思っております。
コロナの様子を見ながら、感染予防して〝うつさない・うつらない〟の心がけをしてこの旅を進めます。
今回はしめくくりの旅となり、鴻巣宿から東京お江戸日本橋まで約66㎞の旅。
本記事は、旅のレポートの一部です。
■この日のルート:
JR高崎線 鴻巣駅~桶川宿~上尾宿~大宮宿~浦和宿~蕨宿 JR蕨駅まで(35㎞)
第3次 浦和宿からのつづきです。
辻の一里塚から日本橋までは五里。
中山道を走る旅もクライマックスです。
そして、この日は鴻巣宿から蕨宿までで終わり、翌日は蕨宿からいよいよ日本橋です。
1歩1歩噛みしめて参りましょう。
●一六橋
見沼用水の分流「一六用水」に架かっていた橋だそうで、
南北朝時代から戦国時代に、このあたりで「一」と「六」の付く日は「市」が開かれていたことからと一六橋と言われるようになったとか。
戦国時代以前に、用水があったことが凄いなと思いますが、
すでに市という文化があった事にも驚きます。
今でも、毎月決まって蚤の市があったり、
某ショッピングモールの「はつーか♪さんじゅうにちは♬5パーセント♩オフ♪」というコマソンがある様に…
昔から、日を決めて市を開催していたかと思うと、市も日本文化だなぁ…なんて思います。
●蕨宿の宿場
いよいよ宿場です。
●中山道ふれあい広場
火見櫓風からくり時計と姫道中を描いたモザイク壁画です。
かわいらしいです
皇女・和宮様でしょうか。
●案内板
中山道の説明が書かれてあります。
●街並み
●岡田加兵衛本陣
老中水野忠邦や松平加賀守、皇女和宮様が休泊しました。
●蕨市立歴史民俗資料館
本陣の横にあります。本陣上段の間が復元されています。
●蕨町道路元標
●蕨市歴史民俗資料館分館
●マンホール
蕨宿は「わらじろう」というゆるキャラです。旅がらすなんだそうです。
まじまじ眺めました。
峠を越え、山間を粘り強く…よくここまで来たものだなぁ…。(自画自賛)
●本陣:2
●脇本陣:1
●旅籠:23
●家数:430
JR蕨駅に向かいます。
この日の宿泊は「さいたま新都心」です。
電車で大宮宿まで少し戻り、疲れを癒し、明日はいよいよ日本橋に向かいます。
蕨駅に向かう途中、銭湯がありました…。
いいなーこんなフォルムの銭湯。
かぐや姫の「神田川」の歌に出てきそうな銭湯だな。
去年の夏に日本橋から板橋まで走っているのですが、
宿場順通り、板橋、日本橋へと向かいます。
今夜は最後の宿泊です。
中山道の旅をかみしめましょう。
中山道は将軍家に嫁ぐ姫宮たちの大通行に使われたため「姫街道」と呼ばれました。
なかでも幕末の公武合体策のため、14代将軍・徳川家茂(いえもち)に嫁いだ和宮の大行列は、絵巻物のような煌びやかさだったようです。
和宮様は、6歳の時、11歳年上の有栖川宮熾仁親王(ありすがわたるひとしんのう)と婚約しましたが、和宮様が15歳の時、幕府から朝廷に対して「十四代将軍徳川家茂へ降嫁を請う」との申し出があり、有栖川宮熾仁親王との婚約を解消し、16歳の時、文久元年(1861年)10月20日に京都から中山道を江戸に向かわれました。
蕨宿は、江戸に入る前にお休みになられた宿場です。
絵巻物の煌びやかさとは反して、とても悲しいお話と感じました。
現代じゃ、考えられない出来事ですが、中山道「姫街道」の道中、和宮様はどのようなお気持ちだったのでしょう…。
和宮様のお気持ちに、少し思いを馳せてみました。
●高温多湿の梅雨や炎天下の夏の季節は、帽子をかぶったり、こまめな水分補給をしたりして、充分な熱中症対策を心がげましょう。
●冬場は防寒対策を行いましょう。
●中山道は思った以上にコンビニがありません。行動食を持っておきましょう。
●トイレは駅やコンビニがほとんどです。事前に場所をチェックしておきましょう。
●自販機はあるコースと峠越えなどは自販機が無いコースもあります。余分に水分を持参しておきましょう。
●お天気が急に変化しますので、レインウェアを持参しましょう。
●救急グッズを持っておきましょう。
●ローカル線は電子カードが使えないことが多いので、電車賃を準備しておきましょう。