■【坊領山~金剛山】上赤坂城編:正義の悪党・楠木正成の七城址めぐり
※2008年・1月31日に記事をアップデートしました。
主体が楠木氏である四城(正確には六城)を走ってきました。
ブログにはまとめていないですが、秋に探索した三城・烏帽子形城址、嶽山城址、金胎寺城址を合わせて
これで楠木七城全制覇したことになります。
今回は上赤坂城をまとめたレポです。
●楠木正成ってどんな人?
楠木正成(1294~1336)は、鎌倉後期から南北朝時代にかけて活躍した人です。
永仁2年4月25日に千早赤阪村の水分に生まれました。
いいくに作ろう鎌倉幕府と年号を覚える時に使われているゴロ合わせも140年続くと衰え、秩序も乱れ始めていました。
そこで、政治を武士から天皇に返そうと、上赤坂城をはじめとする城塞群(じょうさいぐん:敵から防護する目的で建てられる城)をつくり鎌倉幕府軍と戦いました。
●楠木七城とは
1)千早城
2)下赤坂城
3)小根田城(上赤坂城の一部)
4)桐山城(上赤坂城の一部)
5)烏帽子形城
6)龍泉寺城(嶽山城)
7)金胎寺城
【本日のトレイルコース】
楠木公生誕の地~上赤坂城址~猫路山城址~坊領山城址~青崩道~金剛山山頂(国見山城址)~千早赤坂城址~下赤坂の棚田~下赤坂城址~楠木公生誕の地
距離:25Km
累積標高 上り/下りとも 約2200m
高低差 1100m
トレイルランニングの前日から縄張り図を準備し、城のアレコレを予習。
(写真は縄張り図です:中西裕樹著 中世城辞典より)→私のバイブル
縄張り図とは:
城全体の構図を示す平面図(間取り)のことです。
敵を防ぐために堀や土塁(敵を防ぐ土手)をどう置いて、虎口(入り口)をどこに配置するかと言ったプランが描かれた図。
昔は縄をはって間取りを計画していたとか…。
縄張り争いという言葉も、相撲が縄で囲んだ土俵だという事も、
縄張り図と繋がる意味があるのかもしれません。
城址を歩いたり走ったりするとき、縄張り図を持参すると、
ここに土塁がある!敵が上から襲って来そう~
曲輪(建物が建てれるような平らな地、建ってないこともある)にはどんな建物が建っていたのかな~と想像がふくらみ
一瞬で歴史上の時代にタイムスリップできるのが醍醐味。
山のあらゆる所に、敵が攻めてこれない様工夫が成されているので
意味あって前に進みにくいんだ…という事も再認識させられます。
知らないと、ただ単にしんどい山。
構造を知ると昔の人の知恵と造りに感動し、山の魅力と愛が一層深くなります。
最近走るコースを決める時、その土地の歴史をたどってみます。
そうすると不思議な事に、直ぐにコースが見つかるのです。
ただ単に走るだけでなく、一緒に地形や歴史も学べるので一石二鳥。
とっても楽しいです。
上赤坂城とは:
金剛山支脈の1つで西北に伸びる349.5mの峰にあります。
楠木正成の本城だった説もあり、別名楠木本城や小根田城、桐(切)山城とも言われます。
周囲に、猫路山城や千早城、国見山城、下赤坂城も点在しています。
猫路山城や国見山城を含め南北朝時代に楠木正成がとりたてた城塞群とされますが、戦国時代にも畠山氏を軸にした大規模な戦乱に見舞われた山城です。(多くの兵が命を落としている場だと思います)
上赤坂城は、北側には足谷川、東は井戸の谷、西は城の谷という深い谷に三方向囲まれていて南だけが金剛山に続いています。
上赤坂城の構造は大きく3つに分かれていて、
1つめは二の丸 東の城。周りに多くの帯曲輪(おびくるわ:段々に曲輪が連なっていること)が広がっています。
2つめはその隣にある茶碗原という曲輪。
3つ目は千畳敷と言われる本丸(北の城)で約100mの細長いピークです。
太平記によると、この山城は楠木正成が平野将監(ひらのしょうげん)を配して防衛にあたらせたけど、水を絶たれて落城したとされています。
尚、この城は戦国時代に改修されていると考えられていますが、詳細は不明…。
上赤坂城から金剛山に向かうルートは
なかなか人が入らないマイナールートで、すれ違った人はたったの1人。
その方曰く「ここはあまり人が来ないんで…びっくりした!」と呟いていました。
薄暗く、寒いし風の強い日だった事もあり、
木が揺れる音がまるでオカルト映画でゴーストが現れる時の音そっくりで怖かったです。
一方走れるトレイルも多く、保存状態が良すぎる遺構にただただ感動します…。
観察と妄想でなかなか前に進めませんでした。
よくできた城山ですよ。記事で一緒に辿りましょう…
●上赤坂城址を巡る
上赤坂城の登山口前には、楠木城址の縄張り図があるので
登る前に縄張り図の看板で、城の構造を見ておくのがオススメ。
縄張り図のアップです。
さぁ~スタート!! 写真ではわかりにくいですが、いきなりの急登です。
そして…冬の時期なのに真っ暗な木のトンネル…
これは、緑が生い茂る季節に来たら恐ろしいくらい真っ暗なんだろうな~
一の木戸です。木戸とは、虎口にある開閉式の城の門のことです。
ここから城へ入っていくものと考えられます。
一の木戸の看板に城のアレコレが書かれています。
~1333年平野将玄監と楠木正李は多勢の鎌倉幕府相手に奮戦しましたが水路を断たれ陥落したそうです。糞尿を敵にかけた奇策は「糞谷」(くそんど)という地名になって残ってるって。行ってみたい! ~
V字に続く切通し道が続きます。城の大手口だと思われます。(切通し道:山や丘を切り開いて通した道路の事)
最初、山なので空堀(水をはらない堀)か、芥川城でも見られるV字の薬研堀かなとも思いました。
このV字の道が城まで延々と続くのに息をのみます。
V字の切通し道の左右は土塁(敵に攻撃・敵からの防御をするための土手)になっていて人が乗れたり隠れたりできる構造です。
時折、上から敵の矢が飛んできそうな感じがします。
私は土塁の下の城坂(じょんざか)を歩いてみました。
石仏が並んでいました。
2つ目の城門に到着。
一の木戸から約50mのところにあります。
本丸に至るまでは城坂(じょんざか)と呼ぶそうで、4つの木戸が設けられているとのこと。
一の木戸が終わったあたりで振り返ると、切通し道の左右の盛り上がりが
土塁のようになっているのが解りますね。
一の木戸の切通しが終わった辺りから、二の木戸が始まるまでの間の西側に
首切り場があるらしくて、
コンパスで西を確認してみました。
針葉樹林が沢山生えていて、斜面の下は平たくなっていました。
ここは不気味なので通り過ぎました。
三の木戸をすぎると、二の丸の曲輪が見えてくるそうです。
そろばん橋に向かいます。
そろばん橋です。ここは細い土橋になっています。(細い橋)
左右が連続堀切と言って、敵が簡単に進めない様に左右をわざと二重に断ち切っている構造になっています。
この地点は、堀は敵を防ぐのに一番重要なポイントだと思われます。
(堀切とは:わざと尾根を切って敵の侵入を防ぐ構造)
連続堀切は、草ボーボーで解りません。
でも、うっすら白くなっている部分が連続堀切なのかな…とも見えます。
通路が土橋(細い橋)なので、前から矢が放たれたら、たちまち順番に仕留められてしまうような感じですね。
そろばんの様に矢で弾かれてしまうからそろばん橋なのかな…という勝手な妄想でごめんなさい。(昔は、この土橋がなかったのでは?とも言われています)
ちなみにそろばん橋を渡ると大きな土塁があるので、そこからそろばん橋に向かって敵に攻撃していたと思われます。
そろばん橋と三の木戸を過ぎると木のラダーがあります。
この手前辺りからルートを外れ、ガシガシ斜面を登って、
二の丸(東の城)の一部へ入ります。
二の丸は帯状の曲輪が連なる帯曲輪構造になっていて細長い形をしています。
おそらく、登ってきたところは一番下の曲輪だと思われる場所です。
今は木が生い茂っていますが、昔はここに建物が建っていたのでしょうか。
コースに戻り、木のラダーをまっすぐ突き当ると
食い違い虎口と言って前方から守備が敵に見えないようなL字型の道になっています。
コースをそのまま進むと本丸ですが、
コースを東へそれて登っていくと…二の丸東の城です。
おお~ひらけてる!!!△340mです。
二の丸は北西方向に5つの曲輪を連続させる他、地形にならって周囲に曲輪や堀切を設置しています。
二の丸から一段下がった腰曲輪から伸びている帯曲輪も綺麗に見えました。(腰曲輪とは、大きな曲輪から一段下がったところに曲輪がある構造。沢山連なると帯曲輪になる)
奥には堀切(堀を切って敵の侵入を防ぐ構造)がある様ですが、現在は台風災害等により地形が変わって複数の堀切を見ることが出来ないそうです。
二の丸からルートに戻り、本丸(千畳敷)に向かいます。
途中、茶碗原と言われる広い地形が見れます。
ここは陣屋跡で炊事場があったところとされ、石臼や土器が出土しているそうです。
少し小高い坂を登ると394mの本丸です。
本丸は細長い形をしていて、ちょうどこの看板のあたり(本丸の真ん中の辺り)に出て来ます。。
展望のいい北の方へ向かってみます。
平らです。東・西・北の眺望がとてもいいです。天気のいい日は六甲山や淡路島まで見渡すことが出来そうで、点在する出城と簡単に連絡が取れた様です。
(下の写真は本丸ピークの下にある腰曲輪。二段重ねのケーキみたいな形の構造です)
(奥にはPLの塔も見えます!完璧な自由~!)
逆側(南)にも曲輪がありました。
縄張り図によると、奥に大堀切がある様です。しかし、今は見ることが難しいようです。
(堀切とは:わざと尾根を切って敵の侵入を防ぐ構造)
そんなことでここから猫路山城に向かいます。
楠木正成は、子供のころから野山を駆け抜け、このあたりの地形をしっかり把握していたそうで、
城の作りも良く考えられていると思うので、またじっくり探索したいです。
1度でいいからタイムマシーンに乗って、その当時を体験してみたい。
※トレイルランニングで行きましたが、ある程度山に入ると言うしっかりした装備で足を踏み入れないといけない場所もあるので、決して軽装では行かないでね。
猫路山城のレポに続きます。→ 猫路山城址をまとめた記事はこちら
(参考図書:大阪府中世城館辞典 中西祐樹著)
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