■[私が見つけた日本製]:三浦春馬さんから教えていただいた 兵庫 ・塩の国
海水から塩を作っているのは日本だけで、海外は岩塩から塩を作っている。
最終的に煮詰めて塩にしていく…。
カラっとした風が吹く塩田にふさわしい土地や気候であり塩づくりが発達したが、
日本では1971年に塩田が廃止されてしまったので、
塩の国の様に復元された施設が残るのみ。
塩1粒1粒に愛を感じてならない。
健康サポートプロジェクト
合同会社健康サポートプロジェクトです。 10数年にわたって健康経営を推進する企業・団体様向けに健康セミナーや研修コンテンツ等で具体的なサポートをおこなってきました。 福利厚生や労災対策として従業員の方が生活習慣の中で無理なく継続できるエクササイズをご紹介します。
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[幾楚者とは?]-----------------------
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マスクで過ごして数か月…
今日は7か月ぶりにお会いしたお客様が、
私のことがわからなくて代行レッスンで来た指導者の方かと思っていたそうで…
「色が白くなって綺麗になってるから、違う人かと思った」と。
…。
今年はほぼマスクで過ごしているし、
普段から紫外線をカバーして外にでていますが、
特に今年はマラソン大会が無く、
何時間も肌を露出して走ることが無くなったんで2020年は色が白い。
これはマスクで過ごして良かった…ということだが、
逆に。
帰宅ランの時に、和服のおばあちゃんが半幅帯でかわいい結び方をしていたので
「すみません、この半幅帯の結び方、何という結び方ですか?」と聞くと
答えてくださったが、
ちょっと怖がっておられた…(笑)
そういえば、ランスタイルでマスクしてサングラスして
ほとんど露出しているところがないから
怖がって当たり前だな。
誰かに話しかけるときは、せめてサングラスはマナーとして外さないとな。
…
良かったことを活かして、このまま肌は焼かないようにしようと思うー。
[私が見つけた日本製]:岐阜 御嶽町
●御嶽味噌を使った〝みたけとんちゃん〟
中山道を走って見つけた〝みたけとんちゃん〟
甘辛い味噌で味付けをした豚のホルモン焼きのこと。
※韓国語で腸全般のことを〝とんちゃん〟というそうです。
〝みたけとんちゃん〟で使う味噌は「中鉄砲」という
希少価値の高い大豆からできた「みたけ味噌」で味付けがしてあります。
御嵩町は亜炭産業で栄えた町で
亜炭はかつて日本を支えたエネルギー源。
戦前・戦時中の重要物資であり、石炭の代用燃料とされていました。
亜炭鉱として栄えていた頃、炭鉱夫たちがスコップを鉄板代わりにし
〝みたけとんちゃん〟焼いて〝どぶろく〟とともに楽しんだそうです。
御嵩町は、新鮮な豚のホルモンが手に入りやすい環境で、
安価で栄養価も高いので、働く人達の重要なエネルギー源だったとか。
S43年に亜炭鉱は閉山してからも 御嵩町の郷土料理として今も愛されています。
(ちなみに広見線は亜炭鉱を運ぶトロッコ列車が走ったそうです)
彼方此方で亜炭が掘られていたことで、
陥没事故の心配もありますが、
亜炭のおかげで、こんな美味しい料理が残ったのはありがたいですね。
スコップが鉄板代わりって面白い。
家で再現するのは難しいですが、味は間違いないです。
お酒かご飯との相性が良すぎ!
岐阜は史跡も歴史に名を残す先達もいっぱい。
杉原千畝さんや樋口季一郎さんゆかりの地でもあり、
記録しておきたい事が沢山ありすぎます。
(スコップの写真は藤よしさんのHPから)
●株式会社 藤よし
http://www.fujiyosi.org
〔音楽会用の半幅帯〕
着物はちょっと短めに着つけてブーツとベレー帽でモダンに。
…丈を短くすると〝おはしょり〟がモコモコになる。
スポーツや学習の成長曲線と同じで、
継続していればいつかブレイクスルーする瞬間が来るのかと思う。
しっかし、プラトー期間が長すぎて負けそう(笑)
神様上手にできるようになったら、
ドクターマーチン編み上げブーツ、8ホールか10ホールが欲しいです。
→こんなこと書いたら広告がドクターマーチンばかりになるんやろうな(๑˃̵ᴗ˂̵)
手紙を書くなんて習慣は珍しくなってしまった。
何故ならメールやオンラインツールを使って簡単な操作で一瞬にして言葉を届けることができるようになったから。
いざ机に向かってペンをとってみると、
言葉に詰まったり、どう表現しようか手が止まったり…。
だが、自分の場合、選んだ言葉や心の動きを表現するのには
メールやオンラインツールでは早すぎて、
ペンで書きだすくらいがちょうどいい。
何というか…〝思う時間〟というか。
また逆に手紙をもらうと、書いてくれた人が自分のためにわざわざ時間をとって思ってくれたんだな…って感じるし。
思いを伝えたり、伝わったりするには、スピードも大事だけど、
本当は時間をかけることも大事なのかもしれない。
久しぶりに手紙をいただいた。
弟の奥さんから。
嬉しかった。
このBLOGのことも楽しみに読んでくださっているとのことで、
BLOGはオンラインツールではあるけれど、
言葉や文字を大切にして表現していこうと思った。
一筆啓上仕候。
簡単ではあるが、これからわたしも文字を書いて伝えてみようかな。
※リアルタイムのログではありません。数日前のログになります。
〝人間一生 物見遊山…〟
これは江戸っ子の人生観を表す言葉。
生まれてきたのは、
この世をあちこち寄り道しながら見物するためであり、
せいぜいあちこち見て、
見聞を広めて友だちを増やし、
死んでいけばいい…と考えていました。
わたしはこの言葉が好きで、自分もそうしたいと思っています。
京都三条大橋から、お江戸日本橋まで東海道&中山道69次。
江戸時代の人は、江戸から京都までの135里34町余(約540km)㎞を歩いていたそうです。
出張や用事に合わせるので
宿場の順番通りにはいきませんが、西から東へ。
物見遊山しながら…自分の脚で走って一本の道をつなげてみようと、旅をしています。
コロナの様子を見ながら、感染予防して
〝うつさない・うつらない〟の心がけをして
名鉄鵜沼宿駅~第52宿 鵜沼宿~第51宿 太田宿~第50宿 伏見宿~第49宿 御嶽宿~名鉄広見線 御嵩駅 24㎞走ってきました。
レポートの容量が多いので、
24kmの道中のうち、伏見宿~御嶽宿(御嵩宿)として一部を記録します。
伏見宿から御嶽宿に向かって進みます。
みたけ宿は、地名は御嵩、宿名は御嶽と表記します。
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蟹薬師の名で知られている願興寺(がんこうじ)の門前町として栄えました。
桃山時代に建てられ東美濃の正倉院と言われ1200年以上の歴史があります。
この記事を書いている今はコロナ過中であり、
重要文化財の24体の仏像を拝観することはできないですが
コロナウィルスが無ければ、予約して拝観できる様。
この旅では、寄ることができなかったので
また御嶽宿からスタートした時に立ち寄りたいなと宿題ができました。→願興寺HP
くりの季節ですね。
●比衣一里塚
日本橋から96番目(江戸から377㎞…私はあと江戸まで約350㎞)の一里塚です。
顔戸の一里塚ともいいます。
こんもり土が盛られていますが、遺構は残っていません。
綺麗に草刈りをされたあとですね。
この場に比衣一里塚があったようです。
一里塚は主要な街道に約3.9kmごとに築かれた土盛りで、
旅人の目印とされていました。
旅人は一里塚に到着ごとに、〝前に進んでるな…ここまで来たか…〟と感じていたんでしょうね。
私もマラソン大会の3~5㎞ごとに設けられるエイドの様に、
一里塚と宿場に到着したら給水を必ずするようにしています。
可児川です。
●御嶽神社御分霊
しばらく走るとプレハブの祠の中に石碑がいっぱい。
地図で確認しても御嶽神社分霊社はでてこないのですが、
どうも、今回の最後の神社になりそうなので、
旅の安全のご挨拶とお礼をさせていただきました。
※分霊とは祭神の霊をわけて、他の神社にまつること。その御霊(みたま)。
●鬼の首塚
鬼の首塚…怖い名前。
鎌倉時代、鬼岩に住み着いていた不破の関(関ヶ原)生まれの関の太郎。
関の太郎は不思議な術が使え、鬼といって恐れられました。
市場で暴力をふるい、地頭が退治し首をはねました。
その首を桶に入れて京へ運ぶ途中、
この場で急に動かなくなったため埋めたそうです。
埋めた場所が「鬼の首塚」と伝えられています。
鬼の首塚の横には正岡子規の歌碑。
〝草枕 むすぶまもなき うたたねの ゆめおどろかす 野路の夕立〟
●秋葉神社灯篭
旅人に安全に行けよーと言っている様。
御嶽富士と並走しながら宿場に入ります。
いよいよ宿場らしくなってきます。
●みたけ宿わいわい館
宿場に入りました。
みたけわいわい館には、御嵩町の特産品「みたけのええもん」や軽食があります。
残念ながら…この日は休みでした。
●住所〒505-0116
岐阜県可児郡御嵩町御嵩1554番地1
●開館時間:午前9時から午後5時まで
●休館日:毎週水曜日
●HP→https://www.gifu-mitake.com/dining-shopping/waiwaikan/
●中山道みたけ館・本陣跡
本陣跡には中山道みたけ館が建っていて郷土資料博物館と図書館になっている様です。
中には入りませんでしたが、伏見のラクダの絵がある様ですよ。
本陣1
脇本陣1
旅籠28
家数66
●庄家竹屋(しょうかたけや)
本陣職を務める野呂家から分家された竹屋。
明治10年ころの建物と推定され、街道を人や物資が往来し賑わいを見せていた頃の豪商でした。
造りはシンプルで質素…と言われていますが、
それが逆にゴージャスで、風格のある日本家屋の造りに存在感が見えました。
しびれましたよ。
この羽織を着て商売していたのでしょうか。
かっこいいです。
台所です。
食事していたんですね。
中の間からの奥座敷。
奥座敷から中庭。
縁側です。
雑巾がけしたい!
着物をかけて置くやつ…
漆塗りのが我が家にもありました。
用途がわからなかったんで捨ててしまいましたが、
着物を着る今になったら〝お宝捨てた。。。〟敗北感。
知らないって恐ろしいです。
昔の電気の線。
これも古くて味わい深い。
炊事場。
こーゆーのもあったなぁ…。懐かしいなぁ。
機織り機。
資源の再利用。
江戸時代は、つづらや文箱に古紙を貼って何度も使われました。
紙は何度でも使うというリサイクルの精神が竹屋さんにも残っていました。
リサイクルは生活の基本となっていたようです。
中庭です。美しいですね。
御嶽宿 柏屋
タイムリミットで、御嵩駅にて終了です。
まとめて休みが取れれば一度で距離も伸ばせ先に進めるのですが、
日帰りで走っておりまして、
休みとはいえ家事は放棄できないので、走る距離は京都・滋賀を走っていた時より
伸ばせなくなりました。
寄り道なしで走れば、もう少し先に行けるのでしょうが、
二度とない…という気持ちで走ってますので、
キョロキョロ物見遊山三昧。
なかなか前に進みません。
走っている場所が住んでいるところから、
どんどん遠くなるし、この先の計画をしっかり練っていかないとな…と思います。
大阪と違って、電車の本数が非常に少ないです。
しかもここ御嵩駅は単線で終点です。
時間も無いので、名古屋駅に出てそのまま新幹線で帰ろうと思ったら、
家族がご飯食べておいでと言ってくれたので、
名古屋に出たら必ず食べていた名古屋駅名鉄百貨店本館9階にある
ひつまぶし専門店・まるや本店へ。
ちっちゃいやついただきました。
コロナ禍で飲食店も大変でしょうが、まるやさんは大繁盛。
ソーシャルディスタンスを取りながら30分くらい並びました。
走った後だし、かなり待ったので、あおずけの後のごちそうは
すごく美味しく、今まで食べた〝まるやのひつまぶし〟の中で一番おいしかったです。
本来コロナウィルスが無ければ、この季節はウルトラマラソン100㎞を走っていた時期です。
今は感染拡大予防のため、どんな大会も開催されないのが残念ですね。
イベントなどの参加人数の規制は緩和されましたが、
仕事柄、まだまだ大勢でワイワイと走ることはできません。
感染予防しながら、1人でも楽しんでできることはないかと考えて始めた中山道ランは、
不安な点もありますが、不安をクリアしながら経験値を上げるのがロールプレイングの様でとても楽しいし、
何が1番良かったかというと、家族の応援がすごい(笑)ということです。
大会があったときは、大会前になると調整でピリピリするし(記録を出したい大会の場合)、
そのためにトレーニングをしたり、大会のために家を空けることや仕事を休むことも多かったので、家族は決して良くは思っていませんでした。
今は、ピリピリもしないし、大会で家も仕事も空けないから、
家族もこの旅ランに大賛成です。何より、私が中山道を走ることが楽しいって言っているのも大きいです。
なので、コロナウィルスがスッキリしたら、またもとに戻るのか?
大会に出るのか?
そのためにトレーニングをするのか?
というと…疑問なところで、
元に戻るのかもしれないけれど、
どの方にも応援していたがけるような走り方をして行きたいと思っています。
もうすぐ木曽路。
走ることをこころから楽しみます。
なかなか使い切るのが大変なので、
あまり買わなかったスパム。
最近減塩タイプも出ていて、チャンプルに入れたり、お酒のアテにしたりと
結構便利なので冷蔵庫に入っていることが多い。
スパムのホーメルフーズのホームページにレシピが乗っているのだが、
どれも食欲をそそる。
スパムは元々、戦時中に米軍に支給されていて、
毎日毎日スパムスパムスパム…と飽き飽きしてた食料。
メールアドレスに来る、スパムメールという呼び方は、
支給されていたスパムの様に、迷惑メールが絶えずくるから〝
スパム〟と名付けられた説がある。
本当かどうかはわからないけど。。。
ハワイに旅行したら、ABCストアで必ず買うやつ。
〝スパムおにぎり〟
大好き
最近、よく作るのだ!
※リアルタイムのログではありません。数日前のログになります。
〝人間一生 物見遊山…〟
これは江戸っ子の人生観を表す言葉。
生まれてきたのは、
この世をあちこち寄り道しながら見物するためであり、
せいぜいあちこち見て、
見聞を広めて友だちを増やし、
死んでいけばいい…と考えていました。
わたしはこの言葉が好きで、自分もそうしたいと思っています。
京都三条大橋から、お江戸日本橋まで東海道&中山道69次。
江戸時代の人は、江戸から京都までの135里34町余(約540km)㎞を歩いていたそうです。
出張や用事に合わせるので
宿場の順番通りにはいきませんが、西から東へ。
物見遊山しながら…自分の脚で走って一本の道をつなげてみようと、旅をしています。
コロナの様子を見ながら、感染予防して
〝うつさない・うつらない〟の心がけをして
名鉄鵜沼宿駅~第52宿 鵜沼宿~第51宿 太田宿~第50宿 伏見宿~第49宿 御嶽宿~名鉄広見線 御嵩駅 24㎞走ってきました。
レポートの容量が多いので、
24kmの道中のうち、太田宿~伏見宿として一部を記録します。
●太田宿の高札場
いよいよ太田宿に入ります。
高札場は、幕府からの掟を掲げた看板。
ルールを守りましょう!
太田宿の高札場は、今は道標のみで遺構がありません。
太田宿の街並みです。
●太田宿中山道会館
館内には江戸時代の街並みを再現した展示室があります。
喫茶があり、このあたりのお年寄りが楽しそうに集っていました。
●エノキとヤドリギ
エノキに生息するヤドリギ。
エノキの枝に鳥の巣のような青々とした緑の小枝のかたまりが「ヤドリギ」
大地に根を張らずにまるで宙に浮いているようなその姿は、
エノキに寄生していると判っていても不思議な植物。
まるで、太田宿で一休みする旅人の様です。
中山道会館では、お年寄りが作った手作りのものが販売されていました。
中山道で消費しようと決めたので、
わたしも1ついただきました。
リバーシブルバッグです。
着物を楽しむときに使わせていただきます。
購入額に合わせてクジが引けるイベント中で、
若あゆのお菓子が当たりました。
甘くてお餅が疲れた体に沁みてすごく美味しかったです。
江戸時代を再現した展示室。
髪結い屋。
成人式の時、友達はふわふわした頭をこさえてもらってたのに、
わたしはなぜか日本髪でした。
すごく嫌だったんですが、今となれば貴重で自慢できること。
もう一度日本髪を結ってほしいくらいです。
●太田宿本陣門
福田本陣跡。今は門だけが残ります。
皇女和宮様が徳川家茂に嫁ぐときにつくられたという門で、1861年ものです。
木曽のかけはし、太田の渡し、うとう峠の3つの難所を控えた宿場で栄えたそうです。
本陣1
脇本陣1
旅籠20
家数118
玄武ですかね。立派ですね。
街並み。。。
レトロでノスタルジック。
どの宿も〝うだつ〟が立派です。
旧太田脇本陣林家在宅 隠居家
中は開放され見学できます。わりと庶民的な造りでした。
●御代桜
明治26年の造り酒屋です。
●魚徳
岐阜市場から直送仕入れた新鮮な海の幸を豊富に使った魚徳オリジナル「海鮮丼」が味わえます。
太田宿で旅を終わるなら、食べて帰りたかったくらいです。
●飛騨街道追分
法華経塚は、埋葬地(墓地 )の入口に建てられた石碑だったと言われています。
ここから少し東に行くと、飛騨高山へ向かう飛騨街道の追分があります。
飛騨高山への道標なんですね。
●夢街道
障がいを持つ方が手作りしたものが販売されています。
お店の前に出て、〝わ!走ってる!!すごい!!がんばれー〟と応援してくださったので、
一番高いのを買いました(笑)
絞り染めの巾着です。
御嶽まで行くというと、〝熱中症に気を付けてね〟とヤクルトをいただきました。
ヤクルトと楽しいお話をありがとうございました。
夢街道を過ぎると旧中山道は木曽川沿いです。
岡本一平さん(漫画家)
岡本太郎さんの父親です。
この方の絵が大好きなんですが、この太田宿あたりが終焉の地だったんですね。
●太田の渡し(今渡の渡し跡)
「木曽のかけはし、太田の渡し、うとう峠がなくばよい」と歌われた太田の渡し。
木曽川の急流で川底も深い太田の渡しは、難所の1つと言われてきました。
今は太田橋が架けられ難所ということは無かったですが、
確かに橋から川を眺めたら…川幅も広く流れもあり、ここを渡るのか!と思うとお尻がぞくぞくしました。
増水した日なんかは足止めを食らってしまいますね、
●広法堂
●恵土一里塚跡
ここから300m東に塚があったそうです。
●播隆上人の名号碑
いよいよ伏見でしょうか。
伏見郵便局を改造したカフェ。
めっちゃレトロでいい感じ。
着物で訪問したいです。
●伏見宿とラクダ
あちこちにラクダの絵があります。
オランダ商人が幕府にラクダを献上しますが、幕府は受け取りを拒否。
ラクダは興行師の手に渡り、3日間伏見の松屋に滞在したそうです。
●伏見宿本陣
今は遺構はのこらず、道標のみですが、
本陣1
脇本陣1
旅籠29
家数82
の宿場でした。
他の宿より90年余り遅れ中山道の中では一遅れて宿場になった地。
山城の伏見には似つかぬわびしき村なり…と蜀山人(しょくさんじん)は記述しましたが、
電車も国道も通り、暮らしやすそうでした。
伏見宿には女郎塚…といって身寄りのない飯盛女を供養する塚があります。
旅籠などの宿泊施設ではで遊女を雇い入れる行為は法律で禁じられていましたが、宿でご飯を盛る飯盛女は黙認されていたようです、飯を盛って遊女のような存在の方です。
そこへはなんとなくいかないほうが良いかなと行っていませんが、
そのような存在の方が多くいたということ。
当時の女性の役割と現代の女性との違いを感じながら、伏見宿を後にしました。
次はいよいよ御嶽(御嵩)宿です。