■【河内長野】烏帽子形城編:正義の悪党・楠木正成の七城址めぐり
楠木七城の嶽山城址、金胎寺城址、烏帽子型城址へ、知人をご案内してきました。
【本日のトレイルコース】
楠木三城めぐり
河内長野駅~汐ノ宮駅~願昭寺~嶽山城址~腰神神社~金胎寺山城址~金毘羅神社~烏帽子形城址~天野酒
●距離:17.2㎞
●累積標高UP/DOWN 1275m/1366m
●高低差:265m
楠木七城とは、
南北朝時代に楠木正成が鎌倉幕府に対抗するために築城した城砦群のことで
7箇所あります。
河内長野駅からすぐの(河内長野喜多町)烏帽子型公園も、楠木七城の1つ。
1801年の河内名所図鑑によると、山容の絵が、烏帽子の形に似ていると記されていていたので
「烏帽子」という名前は山の形から来ているのかもしれません。
その公園の中に、今でも遺構のお手本のような城址が残っていて、ほんまにスゴイ!!の一言。
山城ビギナーの方、遺構を学んでみたいという方は、まずは烏帽子形城址からスタートしてみると解りやすいかもしれません。
自然も豊富で、山を降りれば直ぐに河内長野の街なので、健康づくりのためのウォーキングやランニングのコースとしてもオススメです。
今回は、烏帽子形城址をまとめますね。
●楠木七城とは
1)千早城
2)下赤坂城
3)小根田城(上赤坂城の一部)
4)桐山城(上赤坂城の一部)
5)烏帽子形城
6)龍泉寺城(嶽山城)
7)金胎寺城
●烏帽子型城とは
1332年、楠木正成(あるいはその一族)が、上赤坂城の支城として築城したという伝承があり、
畠山氏との紛争戦が行われた場所とされます。(…だけど、定かではないそう)
楠木さんの城というより、どちらかというと他の武将や豪族の山城としての文献を見ることが個人的には多いかなーと感じます。
例えば…
1567年に三好長慶が畠山高政を攻め、烏帽子形城を三好が押さえたこと(足利季世記より)や、
畠山氏の勢力がなくなった後に、織田信長や羽柴秀吉の支配を受けていたりと…いろんな人が入城しているとされているのが有名。
近くには高野街道もあるので、交通の結節点となったでしょうし、
本丸部分からの眺めは、たった△182mとは思えないほどの素晴らしい眺望で
河内飯盛山をはじめとする生駒山系や淡路島や六甲山が見渡せちゃうから
どの歴史上の人物も、この烏帽子形山城を押さえたかったんだろうなーと思いました。
あと、先日飯盛城フェスタで城郭研究の第一人者の中井均先生がおっしゃっていたこと。
山城に住んでいたと確認できる要素「瓦・礎石」が確認できたら、
住居だったことも考えられるとのことだったんですが、
烏帽子形城の曲輪からも瓦と礎石が2棟ぶん確認されています。
瓦や礎石は、大阪城や姫路城などの近世の城ではよくみけど、
中世の山城から出てくるのは珍しく、
烏帽子形城は中世と近世の過渡期の時代を見ていた城だったのでは?と色んな想像が膨らみますね。
曲輪や土塁、堀切、切岸、横堀、土橋、虎口など
お城の遺構のお手本みたいな形が残る場所。
草や樹木もそんなに生えていないので城のカタチが良くわかります。
是非、城郭ファンにお勧めしたい場所ですよ。
●烏帽子形城をめぐる
烏帽子形城址の入り口(公園の裏)には烏帽子形城や遺構についての説明が…
大きく掘り下げられた堀底道を歩いて登ります。
堀切です。(わざと尾根を切って、敵の侵入を防ぐ構造)
高く積まれた土塁(土塁:土を盛って上から攻撃したり裏に隠れたりする。)この上から矢を放たれたら直ぐに射止められそう。
土塁です。写真では緩やかな斜面に見えますが、実際は四つん這いじゃないと登れません。
城をぐるっと囲んだ横堀。(平地にある城は水をはった堀で防御しますが、山は空の堀で防御します)
こちらも横堀。とっても長いです。
土塁と横堀。遺構を示す看板があり解りやすい。
曲輪です。(平らなところを曲輪と言います)
礎石が見つかったとされる一番標高の高い曲輪からの眺望。
河内飯盛山をはじめとする生駒山系や淡路島や六甲山が見渡せます。
瓦葺き建物の礎石は二棟見つかっていて、写真は東側の曲輪。戦うための城だけでなく、ここに人が居て文化や政治が行われてたのかな。
大きな障子堀。(堀につい立てを作って入り込んだ敵が動けないようにする構造)
今は土や葉っぱで埋まっていますが、
こんな感じで戦が繰り広げられていたのでしょうか。。。
今はとっても静かな公園だけど
確実に、その時そこに誰かがいて、必死で戦ってしがみついていたと思うと
感慨深い場所ですね。
歴史ロマンあふれる公園です。
今回は、案内させていただいた方も歴史好きで大喜びされていて、こちらまで嬉しかったです。自分の足で色んな所に行けるって宝ですね。