■走る旅:東海道&中山道⑭ 今須峠~笹尾山~関ヶ原宿~桃配山
京都三条大橋から、お江戸日本橋まで。
東海道&中山道69次。
江戸時代の人は、江戸から京都までの135里34町余(約540km)㎞を歩いていたそうです。
対して中山道は、東の山中を通過するので「中山道」
東海道とともに日本の二大幹線道で、中山道は近世以前から「東山道」と呼ばれ
西国と東国を結ぶ主要道でした。
▼中山道:
江戸・日本橋~東海道・草津宿の67継立(67次)
草津宿と大津宿を含めて69次という場合もある。
このログ上では、69次135里24丁8間(約540km)で表記します。
出張や用事に合わせるので
順番通りにはいきませんが、
西から東へ。
自分の脚で走って一本の道をつなげてみよう。
今回は、JR柏原駅からスタートし、
途中、寄り道をしながら、赤坂宿を目指しておおよそ30㎞の旅。
人間一生 物見遊山…
(人が生まれてきたのは、この世をあちこち寄り道しながら見物するためという江戸の人の考え)
沢山見て、感じて、心も身体も動かそう。
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柏原宿~今須宿~今須峠の記事からの続きです。
江戸時代、急勾配で大変だったという今須峠を越えて走ると
どんどん関ヶ原に近くなり、
緑も色濃くなっていきます。
戦国武将たちが陣を置いた低山が並んでいるからでしょうか。
●常盤地蔵
常盤御膳が牛若丸(義経)を思って置かれたお地蔵様…
常盤地蔵の解説板が立っていましたが、
読んでも時系列がよくわからなかったので
ご挨拶だけして走り去りました。
お地蔵様は、旅人を見守ってくれている応援団だと、私は思っています。
●常盤御膳の墓
奥に進むと、ひっそりとお墓がありました。
常盤御膳はすごい美女で有名です。
今若・乙若・牛若の3人の子供を授かり幸せな生活を送っていましたが、
源氏が戦に破れると生活も一転。
牛若丸(義経)を追い、ここまで来たけれど、
土賊に襲われ亡くなくなったという説。
しかし、小野小町の墓同様、
色んな所にお墓があるそうなので、
史実の真相はわかりません。
疑ってかかるとそれまでですが、
信じることはロマンと想像力を生みますので、信じましょーっと!
●鶯の滝
5mの滝。
水量が豊かで鶯が鳴くといわれる。
今須を上り下りするときに、旅人の心を癒してくれた場所だったそうです。
昔から、マイナスイオンや川のせせらぎ、鳥のさえずりなど、
1/fゆらぎと呼ばれる自然界の心地のいいリズムに癒されることを
人間本来が知っていたんでしょうね。
旅の疲れが吹き飛びそうです。
●黒血川
672年の壬申の乱の戦いで大友軍・大海人軍(のちの天武天皇)、
両軍の兵士の血が流れ、
黒くなったという川。
この上流の山中で両軍の衝突があったのでしょうか。
この黒血川をたどって山へ登っていくと
西の軍・石田三成についた、大谷吉継のお墓があります。
大谷吉継はもともとは近江国に生まれ、
敦賀城主・越前国敦賀郡に2万石の領地を持っていました。
白い布で顔を覆い、ちょっとミステリアスな方。
ミステリアスなもの、隠れているもの、そういうものって知りたくなります。
司馬遼太郎原作の映画・関ヶ原でも、
ミステリアスすぎる大谷吉継のことをもっと知りたい!と思いましたもの。
故郷の福井にちなんで、大谷吉継さんのお墓まいりをしたかったですが、
黒血川でサブイボ全開だし、タイムリミットもあるので、
トンネル入り口でご挨拶して走りすぎました。
●高札場
間の宿・山中 高札場。
高札場は、幕府が住民や旅人に対して
告知する必要がある重要事項・ルールが掲げられているところです。
少なくても宿場には1つは高札場があったようです。
どんどん建物や設備、宿場生活など…
中山道のことがわかるようになってきました。うれしい。
●藤古川
関の藤川と呼ばれていたそうです。
壬申の乱では、川を挟んで東が大海人軍、西が大友軍が陣を置いたそうです。
大海人皇子はのちの天武天皇、大友皇子は弘文天皇。
二人とも天智天皇の息子さんです。
歴史上最大の兄弟ケンカ…。
壬申の乱をざっくり簡単に書いてみます。
天智天皇の時代、朝鮮半島では国の統一めぐる争いが起きていました。
以前から日本と友好関係にあった百済が、唐と新羅の連合軍に滅ぼされてしまいます。
天智天皇が崩御した後、新羅が逆襲してくるかも…と思った大友皇子が、
九州大宰府や山陰にトリデをつくり、国や豪族に負担をかけてたのを
大海人皇子がみかねて戦ったという。(672年)
結果、大海人皇子が勝利し、天武天皇となりましたが、
日本書紀を作ったり、伊勢神宮を整備したり、
政治制度を改革したり…
壬申の乱は、のちの日本を作っていく契機だったのは
間違いありません。
●不破関守址
●不破関址
壬申の乱をきっかけにつくられた関所で、
ここを境に西と東を分けて呼ぶようになりました。
いわゆる元祖・天下分け目の場所。
わたしも、いよいよ東に足を踏み込みます。
●関ヶ原の戦い開戦地
中山道をそれ、1㎞程度走ると関ヶ原の戦いの開戦地です。
ここへ来るまでに、島津家の陣もあり、
それはそれは…関ヶ原の戦いにまつわるスポットだらけで
走りすぎるにはもったいない場所です。
1600年、関ヶ原の戦い。
豊臣秀吉が死んだ後の権力をめぐって石田三成が率いる西軍と、
徳川家康が率いる東軍が戦いました。
兵力は西軍85000人、東軍は88000人と大きな差はありませんでしたが、
小早川秀秋による裏切りや、
毛利家を中心とした西軍の主力部隊が戦いに参加しなかったため、
西軍は次第に不利な状況に追い込まれ、数時間程度で東軍の勝利となった戦。
戦いのあと、徳川幕府の成立によって全国統一の幕府体制になり、
この戦も今の日本を作ってきた大きな契機となりました。
…
1600年9月15日
午前8時:東軍の井伊・松平が、西軍の宇喜多隊に発砲し開戦。
正午:小早川が寝返り大谷隊へ攻撃開始。さらに脇坂隊も寝返る。
大谷隊壊滅、大谷吉継は自刃。
石田三成、宇喜多秀家、小西行長らは
伊吹山山中に敗走し、西軍総崩れ。
午後4時ごろ:雨が降り、戦が終わる…
↓この地で、開戦されました。
司馬遼太郎が書いた関ヶ原の様に、
小早川秀秋が本当に裏切ったのか…真実はわかりませんが、
もしも西軍が勝っていたら、
今の日本とは大きく変わっていたんでしょうね。
山の向こうに南に走る伊勢街道、
手前に北へ延びる北国街道と…
中山道の東西と…
東西南北が交差する何かが集まるスポットなんだなぁ…と改めて感じました。
●関ヶ原古戦場
開戦場から600~700mほど走ると、古戦場があります。
そして、200m先くらいに石田三成の陣地・笹尾山です。
登ってみました。
東軍の陣地がよく見渡せます。
三成も420年前、ここからこの風景を見ていたのでしょうか。
●西首塚
首塚は西と東と2つあります。
関ヶ原の戦いで亡くなった多くの方がまつられています。
手を合わせた時、木の方向からものすごい勢いで
コガネムシみたいなのがぶつかってきました。
まるで、兜や鎧をつけた兵士のようでほっこりしました。
●関ヶ原宿脇本陣跡
本陣1、脇本陣1、旅籠33、家数269。
わりと大きな宿場です。
写真の脇本陣は、ふつうにどなたかの家で、写真を撮るのに気が引けました。
お宅の名前が入った郵便ポストを外して撮影しています。
●桃配山・徳川家康最初陣地
国道21号線は桃配山の手前で二股に分かれます。
旧中山道を行くので、東海道本線近くの道に入るのですが、
どうしても行きたかった桃配山は21号線沿い。
ルートを外れて、登ってみました。
壬申の乱では、大海人皇子が最終決戦で兵士に桃配山の山桃を配って士気を高めました。
関ヶ原に戦いでは、徳川家康が験担ぎで最初の陣を桃配山に置きました。
人が力を合わせて何かを成し遂げるときの
パワーが眠る場所なのかもしれません。
家康の机か椅子。どっちがどっちかわかりませんが、
石に座っていたようです。
桃配山からは、開戦地や決戦地となる天下分け目の地が良く見えます。
420年前、家康はここからこの景色を見ていたのでしょうか。
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関ヶ原…
国の行方を左右する画期が2度も中山道上で行われたのは何の因縁かわかりませんが、
日本のおへそ…というか、
東西南北が交差する場は天下分け目となるパワーが集まるのでしょうね。
今年2020年の干支である庚子は、
関ケ原の戦いがあった年と同じです。
2020年の現在は、コロナウィルスという見えない敵ではあるけれど、
関ヶ原の戦いの様に色々戦っているので、
壬申の乱と関ヶ原の戦いの地に来て、
先達からインスピレーションいただきたいなと思っておりました。
貴重な経験をさせていただきました。
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旧中山道にもどり、松並木を駆け抜け垂井宿目指して東へと進みます。
●高温多湿の梅雨や炎天下の夏の季節は、帽子をかぶったり、こまめな水分補給をしたりして、充分な熱中症対策を心がげましょう。
●思った以上にコンビニがありません。行動食を持っておきましょう。
●トイレは駅やコンビニがほとんどです。事前に場所をチェックしておきましょう。
●自販機はあるコースと峠越えなどは自販機が無いコースもあります。余分に水分を持参しておきましょう。
●お天気が急に変化しますので、レインウェアを持参しましょう。
●救急グッズを持っておきましょう。
●ローカル線は電子カードが使えないことが多いので、電車賃を準備しておきましょう。