■二人称
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二人称
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山の整備仲間に〝今日は絶対顔出してね!〟とお願いされ、いつものトレイルランニング。
なんと、ありがたいことに、少し早いホワイトデーのプレゼントをいただいた。
「また顔見せてね。元気出るから!」と見送られ、→こちらこそなんだが。
大きな愛情を背負って山頂まで走ると、今度は久しぶりにYさん率いる登山部に再会。
せっかく会えたので「これホワイトデーにいただいたんです!みんなで食べましょう」と、プレゼントを分かち合い。
すると…登山部の皆さんから、それ以上にお菓子やらフルーツやらワラワラ集まりだした。
「コロナで、どうしてるんやろうかと思ってて、会えてすごく嬉しい。」と、あたたかい声をかけていただいた。
いつもの山は、1人で走っているけれど、
いつもの山でいつも会う人たちは、いつの間にかお友達だ。
アウシュビッツでの経験を綴ったヴィクトール・E・フランクルは『夜と霧』で
〝人生の意味は自分の中にはない〟と書いた。
つまり〝私〟とか〝自分〟という一人称には死の意味がなく、親しい人の死や、顔や声を知っている二人称の死に意味がある。
一人称…「私」「僕」「俺」
二人称…「あなた」 ↑個人的には、こんな多いのは苦手だが…(笑)
「私の顔を見ないと寂しい」と言ってくださった皆さんの心の中に、私が生きている意味があるような気がした。
また会いに行こう。
帰り道の藪の中で、ウリ坊たちの声が聞こえたような…。
新しい命が誕生している春。