■コラム[京街道・東海道]京街道と東海道
全国統一をした豊臣秀吉は、慶長三年(1598年)8月18日に生涯を終えました(62歳)。
それから二年後の慶長五年9月15日に関ヶ原の戦いが起こり、徳川家康率いる東軍が石田三成らの西軍相手に勝利しました。
家康は慶長八年2月12日に征夷大将軍に任ぜられ幕府を開きます。
慶長二十年5月の大坂夏の陣で徳川方が勝利し大坂城は落城。
5月8日に豊臣秀頼と淀殿が自害し豊臣家は滅亡しました。
元和二年(1616年)徳川幕府は、京都・伏見と大阪を結ぶ京街道に、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の4つの宿場を置きました。
幕府は、東海道、中山道、日光道中、奥州道中、甲州道中を主要五街道とし、幕府直轄としました。
なかでも、江戸と上方を結ぶ東海道は重要な街道とされ150前後の大名が参勤交代に利用。
京都、大阪、長崎と江戸を往来する幕臣や多くの庶民も利用しました。
東海道は、江戸の日本橋を起点とし、京都の三条大橋を終点とし、五十三の宿場があります。
しかし、幕府は大津宿から山科の髭茶屋追分で三条へ向かうルートと京街道で大阪に向かうルートも東海道として把握しました。
この京街道は淀川で伏見から大坂の八軒屋まで、安価で楽に三十石船で下れるので、船を利用するものが多かったそうです。