
健康サポートプロジェクト
合同会社健康サポートプロジェクトです。 10数年にわたって健康経営を推進する企業・団体様向けに健康セミナーや研修コンテンツ等で具体的なサポートをおこなってきました。 福利厚生や労災対策として従業員の方が生活習慣の中で無理なく継続できるエクササイズをご紹介します。
このBLOGを書きながら、
3ヵ月以上、走るときは1人だということに気付いた。
仕事のこともあり、まだまだワイワイする集まりはできない状況。
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自分以外の誰かと走るのは4月3日ぶり。
周波数の合うお友達とのランニングは、
見たもの感じたものも共有でき、
見たもこと感じたこと気付きをシェアでき、
成長できる。
心も身体もスッキリだ。
■コース:
大神神社参拝~三輪山登拝~明日香村・石舞台古墳~酒船石~天武天皇(大海人皇子)・持統天皇陵 檜隈大内陵~キトラ古墳
●大神神社・三輪山登拝
古代の日本人は、山・川・海・木の自然を神とし力を信じ拝んでいた。
出雲の大国主命の国づくりを助けた大物主神が鎮座されている三輪山は、
山そのものがご神体。
自然の力を信じ、1歩1歩踏みしめながら登拝させていただいた。
●明日香村
明日香村の石舞台古墳、酒船石、キトラ古墳は宇宙人が造ったんとちゃうか?と感じる造形。

特にキトラ古墳の壁画は
方角や干支・天文が完璧すぎて人間業じゃないな…と想像してしまう。
●天武天皇(大海人皇子)・持統天皇陵 檜隈大内陵
プランの無かった明日香村ラン。
私が気になること頃をピックアップさせていただき、
偶然行けた天武天皇(大海人皇子)と持統天皇陵 檜隈大内陵…。
ご夫婦が一緒という珍しい陵。
天武天皇は壬申の乱で勝利をし、のち日本書紀を作ったり、伊勢神宮を整備したり、政治制度を改革したり…。
ご夫婦そろって律令国家の形成を成し遂げ国の礎を築いた方々。
先日、壬申の乱の地を踏んでいたので、偶然とはいえ、必然のような気がした。
天気に味方されているお友達と一緒だったんで、
鳥居をくぐる瞬間や参拝の瞬間だけ優しい禊の雨がパラついてあとは晴れ。
確か天気予報は雨に雷マークがいてたのに。
お友達の余得にあずかった1日。
とてもリフレッシュできた。
感謝。
平均寿命…。
何歳か知ってますか?
厚生労働省が2019年7月30日に公表した簡易生命表によると、
2018年の日本人の平均寿命は
男性81.25歳、女性は87.32歳と、
過去最高を更新しました。
おそらく2020年のこれから公表される2019年簡易生命表は、
2018年の過去最高を記録するのではないかとよんでいます。
これは、医学の進歩のおかげですね。
Column⑴は、江戸時代の平均寿命について書いてみましょう。
江戸時代の平均寿命は現代の半分です。
今なら簡単に治療できる病気が原因で死亡する方も多く、
抵抗力の無い乳幼児は、発展途上国なみに成人まで成長する確率が低く、
災害や犯罪で命を落とす方も多かったようです。
寿命が短いと言われる江戸時代。
過去最高の寿命と言われる現代に命をつなげてくれた先達には大感謝ですね。
「人間50年、下天のうちを比べれば夢幻の如くなり。」
これは、能楽・敦盛の中に出てくる言葉です。
織田信長はこの能楽・敦盛が大好きで、
桶狭間に向かう時にも演じたといいます。
能楽・敦盛でも「人間50年」と言われるように、
昔の寿命は50歳を超えることなく(江戸時代は約44~45)、
1940年後半ごろまでは50歳を超えることはなかったようです。
昔の日本の平均寿命が低かった要因は、
戦や貧困などだけではなく、
疾病や感染症も要因であり、
1876年ドイツの医学者コッホが病原菌を発見し(日本は明治9年)
ここから医学が改良していくまでは、
自己治癒力に頼ったり、漢方で症状を緩和したりしていましたが、
ワクチンや薬が開発され、急激に平均寿命が延び、
現在の過去最高平均寿命に至っています。
十干十二支が一回りする61歳(満60歳)は還暦。
古希 70歳
喜寿 77歳
傘寿 80歳
米寿 88歳
卒寿 90歳
白寿 99歳
百寿 100歳
茶寿 108歳
皇寿 111歳…
十干十二支が二回りする120歳はなんと言われるかご存じですか?
還暦が2回で
「大還暦」と言います。
大還暦以降は名前がついてないので、
病気や事故・災害など…何も心配することが無い場合、
おおよそ120歳までは生きれるということでしょうか…。
江戸時代は人間50年。
現代の私たちの平均寿命は医療の発達で
まだまだ伸びそうですね。
いったい何歳まで生きれるのでしょうか。
それが良いのか悪いのか?人それぞれですが、
いつまでも健康で、
自分で(服を着たり、歩いたり、日常生活など)やりたいことができる身体と
何事にも楽しんでチャレンジできる心でいたいものです。
クロネコさんが幸せを運んできた。。。
友人からだ。
彼女は、◯◯◯便はキライやから(笑)クロネコが運んできた。
こーゆーぶれないとこも好きで、
笑っちゃったけど、彼女からの愛に涙も出た。
中身は、自分では、絶対手に取らないな…という美しいカバーの短編集と、
友人が家出中に(笑)行った神社のお守りや砂。
生霊に憑かれてしんどいわ…(笑)と言っていた
わたしへの心配りである。
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自分が大変な時に、自分以外の人へ心配りができる人って、
そんなにいないよな。
愛ある友人だ。
感謝やありがとうは軽すぎて、
言葉が見つからない。
感謝やありがとうの最上級の言葉があればいいのに…と思ったけど、
〝幸せなら態度で示そうよ♬〟で、会いに行こう。
考えてみたら、
増水MAXの吉野川で一緒にラフティングしたのは7年前の10月〇日。
不思議なことに、その1年前の全く同じ日にも
偶然彼女に会いに行っていたな。
それから会えていないけれど、
ずっと静かに繋がっている貴重な存在だということは
毎回、彼女の愛で気付かされる。
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いただいた短編の最初の節を読んでみると、
こんな1文が。
まるで、わたしやん。
心配をかけている友人から郵便が届いて、
開くと自分では買わない本。
少し読み始めたら、
「それでいいんだよ」って言っている気がした。
自分ひとりで自分を幸せにしようなんて、
おこがましい(笑)
彼女にあまえた瞬間。
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自分が大変な時に、他の誰かにいろいろ良くしてもらっても、
調子が良くなるとスッカーンと忘れてしまうものだ。
そういうことを忘れない犬のような心は持っていたい。
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いただいた面白い本なので、一気に読みそうになるが、
この本は缶チューハイじゃなく、高いお酒の様。
じっくり毎日チビチビ楽しむように読もう。
50年…
知らなかった。
気付かなかった。
オシャレ!
昨夜まで、オシャレの漢字は
「酒落」だと勘違いしていました。
私の頭の中のオシャレの意味は、
お酒を飲んで落ちて少しだらしなくなっているのがオシャレなんだと…(笑)→違うけど
よく見たら、酒の字じゃない(笑)
「洒落」だったんですね。
一本無いわ!
こりゃ一本とられた!
シャレはサレ。
つまり「戯(ざ)れ」に通じる意味。
戯れとは、遊び。
真剣にならない、気軽な感じのことをいいます。
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今日は、数時間着付けの練習でした。
運動する以上に汗をかいたかもしれません。
浴衣はさくさく着れて大好きなんですが、
夏の着物はツルツル滑って、
お太鼓結びが綺麗にできません。
でも、お洒落の意味を知ったら、
お太鼓結びができなくても「まぁいいか!」
着物はいろんなルールがあるけれど、
あまり真剣にならずに気軽に…ですね。
※気軽なので、足元は和装のこはぜの付いた足袋ではなく
インナーファクトさんの五本指ソックスです。
足袋型ソックスだと、なおさらさりげないオシャレになりますね。
江戸時代の町の人は帯なんてなくて紐でしたから。。。
そんなことで、あきらめてしばらくお文庫結びとかでいこう。
数日前に関ヶ原で見かけた昼顔をイメージして、
帯留め作ってみました。
お洒落は戯れ。
遊びの様に楽しくいきましょう。
ちりめん細工。
ちょっとコツをつかみました。
あと3つくらい作ったら、誰かにプレゼントできそうかも。
京都三条大橋から、お江戸日本橋まで。
東海道&中山道69次。
江戸時代の人は、江戸から京都までの135里34町余(約540km)㎞を歩いていたそうです。
出張や用事に合わせるので
順番通りにはいきませんが、
西から東へ。
自分の脚で走って一本の道をつなげてみよう。
今回は、JR柏原駅からスタートし、
途中、寄り道をしながら、赤坂宿を目指しておおよそ30㎞の旅。
人間一生 物見遊山…
(人が生まれてきたのは、この世をあちこち寄り道しながら見物するためという江戸の人の考え)
沢山見て、感じて、心も身体も動かそう。
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今須峠~笹尾山~関ヶ原宿~桃配山の記事からの続きです。
関ヶ原の戦いでは、徳川家康が最初に陣を置いた桃配山をあとにして、
第57次・垂井宿を目指します。
●野上松並木
樹齢300年の松の木が70本続くという、野上松並木。
関ヶ原天然記念物に指定されているそうです。
The・街道という風情。
●六部地蔵
野上松並木の中に、六部地蔵の立て看板がありました。
どこを探しても無かったのですが、どうも祠(ほこら)の中にあり、
周辺は公園だそうです。
祠は奥でしょうか。
六部とは全国の寺社を厨子(ずし)を背負って巡礼する行者のこと。
「六部地蔵 歯痛治りて 礼参り」
と詠まれ、痛みのひどい病を治すお地蔵さんとして知られていました。
「ひどい」時は、神や仏に頼りたくなるのは、今の時代でも同じですね。
●垂井一里塚
立派な囲いに守られた一里塚です。
西は、一里塚が残ってない箇所がありましたが、
不破の関を越え東に入ってから
一里塚がどっしりとあるのが嬉しいです。
とくに垂井一里塚は、北は壊れていますが南は完全な形で残っていて、
中山道中で国定指定史跡の一里塚は、
東京都板橋区志村と垂井一里塚の2か所だけだそうです。
旅人は、この垂井一里塚を目印にして先を行ったのですね。
江戸時代に生きた旅人と同じものを目に出来て、うれしいです。
●日守茶所
中山道の旅人の休憩所です。
もともとは芭蕉ゆかりの地・常盤御膳(ときわごぜん)の墓所に秋風庵を建て、
明治になって垂井一里塚の隣に移したとのこと。
昭和のはじめまで利用されていたそうです。
●西の見附
垂井宿の西の入り口です。
いよいよ垂井宿に入ります。
垂井町の花は椿だそうで、街のいたるところに椿の絵を見つけ
ほっこりします。
見附の案内板の横には、歌川広重の垂井の絵。
薄くなってわかりづらいですが、
この西の見附のあたりを描いたようです。
西の見附の愛宕神社。
広重の絵のアングル…と思って撮影してみました。
私は西から東を撮影。
しかし…広重は東から西の街並みを描いたようです。
雨の垂井。
遊女の絵が売られていますな。
●高札場
幕府からの住民や旅人に告知する必要がある重要事項が書いてあるのが高札場。
内容はキリシタンの禁止やニセ金作りや使用の禁止。
親子兄弟の忠孝(ちゅうこう)を守ることなどが書かれています。
※主君に対して忠義を尽くすことと、親に対して孝行をつとめること
●街並み
垂井宿・お休みどころ長浜屋。
旧旅籠屋です。
旅籠屋・亀丸屋。
江戸中期から今も営業を続けているそうです。
垂井宿本陣を見逃しました。
江戸時代に焼失し、歯科医院前に碑が立っているだけのようです。
本陣1・脇本陣1・旅籠27・家数315。
しかし、小さな宿場町ですが、旅籠屋・亀丸屋。
令和になった現在でも存在感がありますね。
●相川の人足渡跡
江戸時代は2通りの川の渡り方があったようです。
1つ目は、川越し人足の手を借りて歩いて渡る方法。
旅人が人足に肩車をしてもらったり、輩台(れんだい)に乗って担がれて渡ります。
これを徒歩(かち)渡しといいます。
もう1つが渡し船を利用するもので、船渡しといいます。
相川は昔から暴れ川で、たびたび洪水がありました。
そのため、人足渡が主流だったそうです。
人足は垂井宿の百姓が務め、
渡川の水量によって渡賃が決められていたようです。
命がけですね。
●青野一里塚跡
中山道一里塚跡…という道標。
青野の文字は見当たりませんでした。
これかなぁ…
●昼飯町(ひるいちょう)の由来
如来時の前にある昼飯町の由来の看板。
大阪の海で拾われた如来像が長野の善光寺へ運ばれる途中、
一行がここで昼飯を食べたそうです。
〝努力する人は希望を語り、怠ける人は不満を語る〟
つまり、不満を言う人は暇なんですね。
●昼飯大塚古墳
ルートを外れて古墳を見に行きました。
1600年前に築かれた岐阜県最大の前方後円墳。
長さが150m・高さ13mです。
とても立派でした。
どなたが眠っているのかはハテナですが、様々な出土品が出ているそうです。
●兜塚
関ヶ原の戦い前日に、杭瀬川の戦いで命を落とした方の塚です。
手あわせてきました。
●赤坂宿脇本陣跡
●赤坂宿本陣跡(公園)
本陣1・脇本陣1・旅籠17・家数292。
こじんまりとした宿場でしたが、江戸時代に引き込まれそうな古い町並み。
素敵でした。
本陣公園には幕末の志士、所郁太郎の像。
この方のこと、…知りませんでした。
大阪の適塾に入門して緒方洪庵に学んだようです。
お医者様でありながら、
高杉晋作とともに長州藩の俗論党を破った人だそうで、
司馬遼太郎が書いた『美濃浪人』に登場しているみたいです。
読んでみたいリストに追加です。
●金生山(かなぶやま・きんしょうさん)
番外です。
赤坂宿本陣まで行ったあと、
少し西に戻り、金生山へ登ってきました。
写真では平たんに見えますが、
かなりの勾配がある山。
標高は217mと低山ながらも、
走って登るとふくらはぎにきます。
この日の気温が34度で、汗の出具合も多かったせいか?
ふくらはぎがつりそうに…。
山頂を1周回る予定が、上まで登ってから直ぐに引き返しました。
地元の方の話によると、ここは夜景スポットだそうです。
充分神秘的な景色でしたが、
1周ぐるっと回ると、ここは日本なの?という風景が見れるようです。
沢山の化石や鉱物が出るので、化石館もありました。
今はコロナウィルスの影響で閉館中でした。

神秘的…と言っても山を削ってるやつ。
どんどん形が変わるので、一期一会の風景です。
●町の風景
街道っぽいです。
大きな櫓(やぐら)。
赤坂港跡。
蛍の像の横に川灯篭がありましたが、
気付かずに…大きな蛍を激写。

杭瀬川です。
関ヶ原に戦いの前日に杭瀬川の戦いがあり、
西軍が勝った。
こんな小さな杭瀬川で戦があったんですね。
杭瀬川を越えて美江寺宿方面へ…
30㎞走って、養老鉄道 養老線 東赤坂駅で終了。
養老線は電車の時間が1時間に2本程度です。
電子カードは使えません。
このあたりから旅ランする時間や、
どの駅で終了するかを考えて行動しないと
電車無いわ…状態になります。
東赤坂駅は無人。
旅ランは、計画的に…ですね。
・
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下調べして、行きたいところをチェックして予習。
旅ランを終えるたびに復習…。
この様に学びながら走ることは、私に合っている様で、
とても楽しく充実しています。
そして、この記事も、
いつか同じように走りながら旅をしたり、
歩きながら旅をする人が見てくれたらな…という気持ちでまとめています。
雨やコロナウィルスが心配ですが、状況に合わせて休憩し、
ゆっくりゆっくり進みましょう。
京都三条大橋から、お江戸日本橋まで。
東海道&中山道69次。
江戸時代の人は、江戸から京都までの135里34町余(約540km)㎞を歩いていたそうです。
出張や用事に合わせるので
順番通りにはいきませんが、
西から東へ。
自分の脚で走って一本の道をつなげてみよう。
今回は、JR柏原駅からスタートし、
途中、寄り道をしながら、赤坂宿を目指しておおよそ30㎞の旅。
人間一生 物見遊山…
(人が生まれてきたのは、この世をあちこち寄り道しながら見物するためという江戸の人の考え)
沢山見て、感じて、心も身体も動かそう。
・
・
・
柏原宿~今須宿~今須峠の記事からの続きです。
江戸時代、急勾配で大変だったという今須峠を越えて走ると
どんどん関ヶ原に近くなり、
緑も色濃くなっていきます。
戦国武将たちが陣を置いた低山が並んでいるからでしょうか。
●常盤地蔵
常盤御膳が牛若丸(義経)を思って置かれたお地蔵様…
常盤地蔵の解説板が立っていましたが、
読んでも時系列がよくわからなかったので
ご挨拶だけして走り去りました。
お地蔵様は、旅人を見守ってくれている応援団だと、私は思っています。
●常盤御膳の墓
奥に進むと、ひっそりとお墓がありました。
常盤御膳はすごい美女で有名です。
今若・乙若・牛若の3人の子供を授かり幸せな生活を送っていましたが、
源氏が戦に破れると生活も一転。
牛若丸(義経)を追い、ここまで来たけれど、
土賊に襲われ亡くなくなったという説。
しかし、小野小町の墓同様、
色んな所にお墓があるそうなので、
史実の真相はわかりません。
疑ってかかるとそれまでですが、
信じることはロマンと想像力を生みますので、信じましょーっと!
●鶯の滝
5mの滝。
水量が豊かで鶯が鳴くといわれる。
今須を上り下りするときに、旅人の心を癒してくれた場所だったそうです。
昔から、マイナスイオンや川のせせらぎ、鳥のさえずりなど、
1/fゆらぎと呼ばれる自然界の心地のいいリズムに癒されることを
人間本来が知っていたんでしょうね。
旅の疲れが吹き飛びそうです。
●黒血川
672年の壬申の乱の戦いで大友軍・大海人軍(のちの天武天皇)、
両軍の兵士の血が流れ、
黒くなったという川。
この上流の山中で両軍の衝突があったのでしょうか。
この黒血川をたどって山へ登っていくと
西の軍・石田三成についた、大谷吉継のお墓があります。
大谷吉継はもともとは近江国に生まれ、
敦賀城主・越前国敦賀郡に2万石の領地を持っていました。
白い布で顔を覆い、ちょっとミステリアスな方。
ミステリアスなもの、隠れているもの、そういうものって知りたくなります。
司馬遼太郎原作の映画・関ヶ原でも、
ミステリアスすぎる大谷吉継のことをもっと知りたい!と思いましたもの。
故郷の福井にちなんで、大谷吉継さんのお墓まいりをしたかったですが、
黒血川でサブイボ全開だし、タイムリミットもあるので、
トンネル入り口でご挨拶して走りすぎました。
●高札場
間の宿・山中 高札場。
高札場は、幕府が住民や旅人に対して
告知する必要がある重要事項・ルールが掲げられているところです。
少なくても宿場には1つは高札場があったようです。
どんどん建物や設備、宿場生活など…
中山道のことがわかるようになってきました。うれしい。
●藤古川
関の藤川と呼ばれていたそうです。
壬申の乱では、川を挟んで東が大海人軍、西が大友軍が陣を置いたそうです。
大海人皇子はのちの天武天皇、大友皇子は弘文天皇。
二人とも天智天皇の息子さんです。
歴史上最大の兄弟ケンカ…。
壬申の乱をざっくり簡単に書いてみます。
●不破関守址
●不破関址
壬申の乱をきっかけにつくられた関所で、
ここを境に西と東を分けて呼ぶようになりました。
いわゆる元祖・天下分け目の場所。
わたしも、いよいよ東に足を踏み込みます。
●関ヶ原の戦い開戦地
中山道をそれ、1㎞程度走ると関ヶ原の戦いの開戦地です。
ここへ来るまでに、島津家の陣もあり、
それはそれは…関ヶ原の戦いにまつわるスポットだらけで
走りすぎるにはもったいない場所です。
↓この地で、開戦されました。
司馬遼太郎が書いた関ヶ原の様に、
小早川秀秋が本当に裏切ったのか…真実はわかりませんが、
もしも西軍が勝っていたら、
今の日本とは大きく変わっていたんでしょうね。
山の向こうに南に走る伊勢街道、
手前に北へ延びる北国街道と…
中山道の東西と…
東西南北が交差する何かが集まるスポットなんだなぁ…と改めて感じました。
●関ヶ原古戦場
開戦場から600~700mほど走ると、古戦場があります。
そして、200m先くらいに石田三成の陣地・笹尾山です。
登ってみました。
東軍の陣地がよく見渡せます。
三成も420年前、ここからこの風景を見ていたのでしょうか。
●西首塚
首塚は西と東と2つあります。
関ヶ原の戦いで亡くなった多くの方がまつられています。
手を合わせた時、木の方向からものすごい勢いで
コガネムシみたいなのがぶつかってきました。
まるで、兜や鎧をつけた兵士のようでほっこりしました。
●関ヶ原宿脇本陣跡
本陣1、脇本陣1、旅籠33、家数269。
わりと大きな宿場です。
写真の脇本陣は、ふつうにどなたかの家で、写真を撮るのに気が引けました。
お宅の名前が入った郵便ポストを外して撮影しています。
●桃配山・徳川家康最初陣地
国道21号線は桃配山の手前で二股に分かれます。
旧中山道を行くので、東海道本線近くの道に入るのですが、
どうしても行きたかった桃配山は21号線沿い。
ルートを外れて、登ってみました。
壬申の乱では、大海人皇子が最終決戦で兵士に桃配山の山桃を配って士気を高めました。
関ヶ原に戦いでは、徳川家康が験担ぎで最初の陣を桃配山に置きました。
人が力を合わせて何かを成し遂げるときの
パワーが眠る場所なのかもしれません。
家康の机か椅子。どっちがどっちかわかりませんが、
石に座っていたようです。
桃配山からは、開戦地や決戦地となる天下分け目の地が良く見えます。
420年前、家康はここからこの景色を見ていたのでしょうか。

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関ヶ原…
国の行方を左右する画期が2度も中山道上で行われたのは何の因縁かわかりませんが、
日本のおへそ…というか、
東西南北が交差する場は天下分け目となるパワーが集まるのでしょうね。
今年2020年の干支である庚子は、
関ケ原の戦いがあった年と同じです。
2020年の現在は、コロナウィルスという見えない敵ではあるけれど、
関ヶ原の戦いの様に色々戦っているので、
壬申の乱と関ヶ原の戦いの地に来て、
先達からインスピレーションいただきたいなと思っておりました。
貴重な経験をさせていただきました。
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旧中山道にもどり、松並木を駆け抜け垂井宿目指して東へと進みます。
京都三条大橋から、お江戸日本橋まで。
東海道&中山道69次。
江戸時代の人は、江戸から京都までの135里34町余(約540km)㎞を歩いていたそうです。
出張や用事に合わせるので
順番通りにはいきませんが、
西から東へ。
自分の脚で走って一本の道をつなげてみよう。
今回は、JR柏原駅からスタートし、
途中、寄り道をしながら、赤坂宿を目指しておおよそ30㎞の旅。
人間一生 物見遊山…
(人が生まれてきたのは、この世をあちこち寄り道しながら見物するためという江戸の人の考え)
沢山見て、感じて、心も身体も動かそう。
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醒井宿~柏原宿からの続きです。
●スタート:
スタートはJR柏原宿前の三丁目キッチンから。
前回食べたワッフルがとても美味しかったなぁ…。
朝早いのでまだOPENしておりません。
■三丁目キッチンお店情報:
〒521-0202
滋賀県米原市柏原867
■営業時間:8:00~18:00
三丁目キッチンから、中山道を東に向かって走りますが、
毎回験担ぎで、スタート近くの神社かお地蔵様に
走る旅の安全祈願をしてから走り始めます。
●柏原・八幡神社:
八幡神社が近いので、八幡様にご挨拶させていただきました。
八幡神社は全国に約44,000社ほどありますが、
今回のコース上にもたくさんありました。
柏原の八幡宮のご祭神は、
松尾芭蕉の(桃青)句文碑が残されています。
松尾芭蕉は1689年、敦賀から奥の細道の最終地の大垣へと歩いていた途中、
雄大な伊吹山を見て一句詠んでいます。
〝戸を開けはにしに
山有いふきといふ花にもよらす雪にもよらす
只これ孤山の徳あり
其まゝよ
月もたのまし
伊吹山〟
その席で伊吹山は、花や雪や月がなくても、ただそのまま見てるだけで、
立派な眺め賞し得る山容を備えている
…という一句です。
●街並み:
東見附跡。柏原宿の東の入り口。
見附とは城門のことで宿場用語のこと。
ここで、宿場や旅人の安全を確保するための見張りをしていたんですね。
●照手姫笠掛地蔵
照手姫とは、仏教説話「小栗判官・照手姫」に登場する女性。
半死半生の小栗判官を車に乗せ、
ここを通ったところ、道端にお地蔵さんを見つけ、
自らの笠を被せてお祈りしたら、お告げが。
お告げで熊野へ行った…そんな物語。
私へのお告げはありませんでしたが、旅路をやさしく見守ってくれました。
これまでの中山道の道中も、
宿場に入ってくるときや出るときも、
たくさんのお地蔵さんがあるのですが、
旅人や宿場の人の安全を見守っているそうです。
ありがたいです。
私は、1人で走っていますが、
お地蔵さんが沿道で応援してくださっている人のようなので、心強いです。
●たけくらべ
たけくらべとは、楓並木のこと。
楓並木の中は、本当に涼しいんです。
色は実際にはないですが、ひんやりとした青い風を全身に受けているような感覚。
この楓は秋になったら真っ赤になって美しいんだろうな。
今度は赤い風を全身に受けるんだろうか。
・
・
・
しかし、まったくもって誰もいません。
駅は無人だし、有人駅は対面できないような対策でインターホン越しに会話だし…
新しい生活様式とは言いますが、
もうどっしりと個の世界が日常生活になっている…そんな感じがしました。
この走る旅シリーズも、
個で走っても、楽しく続けられる
新しいランニングスタイルの提案の一環として取り組んでおります。
●寝物語の里
走って国境越え。
近江と美濃、両国の国境は幅一尺五寸の溝なんですよ。
ここに家が連続してあり、
国と薄い壁を隔てて隣人同士が寝物語をしたそうな。
今では考えられないですね。
話し声や騒ぎ声を聞いたら、うるさい!なんて怒鳴りこみそうですもの。
いいような、悪いような、古き良き時代です。
そういえば、江戸の書籍を読んでいたら、こう書いてありました。
江戸時代の特に長屋は壁が薄く、
プライバシーなんてない代わりに、
何かがあったら隣人がすぐに跳んで来れる。
かえって災い防止になっていたそうです。
そしてこの国境は、歌川広重が絵にかいた場所なのかな…とも思います。
歌川広重の絵には、江濃両国境と書いてあり、
家がぎゅうぎゅうに並んでいます。
これが初代標柱の基礎石。
絵にかいてある標柱なのでしょうか。
歌川広重が描いた今須の絵のアングルで写真を撮ってみました。
昔は絵の様に旅人が行き交っていたんでしょうね。
今は、国道と鉄道、
そして人を運ぶ乗り物に手段が変わってしまいましたので
中山道で人とすれ違うことはほとんどありません。
石田三成の旗。
関ヶ原に近づいているというワクワク感と、
戦いに参戦して戦地に向かっている様なドキドキ感が高まります。
大一大万大吉…この意味は
「1人が万民のために、万民は1人のために尽くせば、天下の人々は幸福(吉)になれる」という。
ほんまそう思う。
●車返し坂
不破の関屋が荒れ果てて、屋根から漏れる月の光が面白いと聞き、
都から公家の二条良基がやってきたけれど、
この坂道の途中で屋根を直したと聞き、引き返してしまったエピソードから
つけられた坂の名前。
不破の関屋までは、あと少しだったのに。
本当に二条良基の目的が、
月の光を面白がりに行くことだったんですね。
さぁー!!関ヶ原の戦いに参戦した西軍の旗がちらほら。
大谷吉継は福井の敦賀城の城主ですが、
うちの福井の実家の家紋も鷹の羽の。大谷家と同じ家紋です。
なんか、お墓参りに来た感覚で、懐かしいです。
●青坂山 妙應寺(みょうおうじ)
この奥にある青坂山に向かって寄り道。
すると、ドーン!
山門に菊のご紋の扉。
かつてあった日本の宮家の一つ、
伏見宮家の方々がお参りしたそうです。
不破郡関ケ原、青坂山 妙應寺(みょうおうじ)
岐阜県内最古の曹洞宗のお寺です。
江戸時代中ごろに居益村に大飢饉が起こり、
飢饉を乗り越えるには、今こそ人々の心を一つにす(須)べからく、
前向きに生きていくことが大切と、居益から今須に郷名を変え乗り越えたそう。
なんて素敵なんだろう。
文字や言葉には魂が宿りますね。
妙應寺には、関ケ原の戦い後、
佐和山城攻めの途中で腰掛けたとされる石・徳川家康腰掛石があります。
家康が大切にした運鈍根の生き方。
運・鈍・根とは、
立身・成功の三条件として考える「好運に恵まれること、才走らずこつこつ努めること、および根気よい」こと。
腰掛石に座り〝嬉しい、楽しい、ありがたい、運・鈍・根〟と3回唱えると幸せになれるそう。
家康公はここに座っていたのですね。
〝嬉しい、楽しい、ありがたい、運・鈍・根〟と3回唱えてみました。
美しい境内。
水の流れはずっと見ていても飽きないです。
立派な鬼瓦です。
中にお地蔵さん。
寺社仏閣の神様・仏様の中で、
お地蔵さんとお稲荷さんだけ、
「お」と「さん」が同時につきます。
それくらい、なじみ深く親しみやすい
庶民に近しい神様仏様なのでしょう。
稲を荷う田の神様。
とても美形のお稲荷さんが2体、「阿吽」の呼吸でお揃いでした。
さざれ石もありました。
さざれ石は、日本の国歌「君が代」の中にも出てきます。
さざれ石とは、細かい石のことです。
君が代では小さな石が集まり、やがて大きな岩になるくらい
長く永遠に反映しますようにという願いを込めている説があります。
日本の言の葉は、本当に美しいです。
お寺を後にするとき、こんな言葉が目に留まりました。
〝なすべきことをしていけば
自然と結果はよくなる〟
共感します。
運・鈍・根の精神で、コツコツと。
■青坂山 妙應寺(みょうおうじ)の所在地:
〒503-1543 岐阜県不破郡関ケ原町大字大字今須2591‐1
※COVIT‐19の影響で、お参りはできても、拝観の扉は閉まっている可能性があります。
この日は早朝ということもあったのか閉まっていました。
●今須一里塚
復元だそうですが、ちゃんと木が植えられてあり小高い塚になっています。
滋賀の一里塚は気付かないくらい気配が無かったので、
ちょっと感動しました。
一里塚とは、一里毎(3.93km・約4km)にある塚のことです。
目的地までの距離の目安になるので、
一里塚を理解してからは、目印にして走っています。
●今須峠
今は整備されていますが、江戸時代は急勾配で超えるのが大変な峠だったとか。
さてさて、スタートしてから5㎞ほどなのに、史跡だらけ。
あと25㎞…先を進むのが楽しみです。
いよいよ日本歴史上の二大『天下分け目』の決戦地。
壬申の乱と関ヶ原の戦いの地へと足を踏み入れます。
続きはまた後日。